情緒不安定

 

本当に体調が悪い。焦燥感と無気力と気持ち悪さを混ぜたような感じ。そして頭の中がまとまらない。霧がかかってるみたいに、考えごとができない。

こんな感じだったな、と思う。病院に行きはじめる前、いちばん調子が悪かったとき。今みたいな感じだった。まとまらない思考とぐちゃぐちゃの感情とうるさい自我に悩まされて、死んでしまえばこれが全部なくなるのだろうか、と思った。いや、死ななくてもいいか。なにか大きな出来事、意識不明になるとか体が潰れるとか、そのくらいのなにかが起きれば全てが落ち着く気がした。今もしている。

この状態は経験した人にしかわからないだろうし、経験しても思い出すことは難しいし、つまり伝わらないことは理解しているけど、それでもメモとして残しておきます。

ひとことで表すなら、混沌とか、拡散とか、そんな感じ。とにかくまとまらない。私の中にうるさい誰かがいて、ずっとなにか言ってて、私の感情をめちゃくちゃにしているような、ずっと暴れているような。常になにかが気になる、集中ができない、イライラが収まらない、そわそわする、頭が動かない。全てがどうでもよくて、でも頑張らなきゃいけない気がする。息苦しい。

 

こんなものと闘ってきたのか、そして今も闘ってる人がいるのか。伝わらないし解決もできない苦しさの中で生きてる人たちが、どうか今夜だけでも落ち着いて眠りにつけますように。その人たちの中で暴れるなにかが、静かにしていますように。あわよくば私も静かに眠れますように。おわり

コミュニケーションについて最近なんとなく考えること

 

いつものことながら自分語りです。

 

私が生きてきたのは2000年代で、つまりコミュニケーションの形が昔と今で違うのならば私は今の形しか知らない。今の形について、「承認をめぐる病」という本に「毛づくろいのようなコミュニケーション」という言い方が出てくる。もう少し違う言い回しだったとは思うけど。この比喩は凄く、わかる。そして同時に、では毛づくろいでないコミュニケーションとはなんだろう、とも思う。

文を書いたり話したりする時、知らない文の形は使えない。文にも決まった形があり、自分の表現したいことに合うものを探してそれを加工して使っているにすぎない。これはコミュニケーションにも言えるんじゃないか。コミュニケーションにも決まった形のパターンがあり、その場面、気持ちにあったものを使うしかできないのではないか。

 

経験から、「決まった形に沿うだけのコミュニケーション」とは違う「好きなように形を作るコミュニケーション」があることを知っている。話している時もこれがどちらのコミュニケーションなのかはわかる。心地のよさは人によるかもしれないけど、私が好きなのはもちろん後者だ。そして、後者の会話に必ずあるのは思考と発見だと思う。同じ題材について考えること、それを共有すること、その中で発見をすること。これだけなのに、これだけが凄く難しい。考えることが苦痛じゃない相手、お互いに興味の持てる題材、お互いの思考を理解できること、発見を喜べること。全部難しい。相手のことを好きじゃなきゃいけない。興味がなきゃいけない。だけどたぶん最もなおすべきなのは、決まった形のコミュニケーションじゃ相手を楽しませられないことなんだよね。

 

きっと今までどういう人たちとコミュニケーションを取ってきたかで知っているパターンが変わる。年上とばかり話せば年上と話すパターンを学ぶし、同年代とばかり話せばそのパターンを学ぶ。話さなければ会話のパターンを知らない。だから環境が変わっても交友関係の中身が変わっても、周りにいる人のタイプが大幅に変わることはないのだと思う。相手に楽しませてもらうパターンの会話ばかりしてきたのかもしれない。それとも、私が楽しませる側に行く時期になったのか。

 

なんとなく感じることをちゃんと言葉にするって難しい。ほかの人が読んでどう思うかを考えると余計に難しい。言語化の練習だと思って頑張ります

ブラックボックス展

 

考察厨なのでブラックボックス展についていろいろ考えてみた。結論から言えば、ブラックボックス展に興味を持ち散々調べて考えた私も、好奇心から訪れた人々と変わらないのかもしれない。行きたい気持ちしかなかったのに行かないのが正解だと思ったのは、何人かが既に批判的な考察をしていたからだ。完全な好みで言えば、人を馬鹿にするようなこの展示は好きじゃない。だけど、主催者もおそらくここまでの来場者は期待していなかったのかもしれないと思う。面白がって嘘のツイートをする人たちは、ブラックボックス展で何を学んだのか。インターネットの情報に翻弄された自分の体験をどうしてほかの人にもさせようと思うのか。きっと、嘘のツイートをする人たちも予想していなかった。自分のツイートで何時間も並びお金を払ってなにもない部屋に行く人があんなに多いとは思わなかった。主催者がどこまで考えていたのかわからないけど、面白い結果にはなった。ただ行かなくてよかったと思う。少しでも「一杯食わされたのオチなのでは」と予想した人は行かないべきであり、必ず中に何かがあると信じて疑わない人こそが行くべきな展示だ。

ただひとつ思うのは、もしかしたら「6/18以降は、“展示などなく、ただ暗闇が広がっているだけ”というツイートのみを許可します。」という紙が配られていたかもしれないな、ということです。

 

もうひとつ、結局「選別基準」はなんだったのか。展示の中身が本当にただの暗闇だったのだとすれば、まず蛍光色や光るストラップ等をつけている人ははぶかれる。次に中で合流されないようにグループで来ている場合は1人のみを残しはぶかれる。手に荷物を持っている人も、中で落としてなくされても困るからはぶく。他は?最後の日に「黒い服だとよい」と言っておいて黒い服の人もはぶいた理由は?

これだけがどうしても納得がいかない。馬鹿にしている、というか面白がっているのでは、と思ってしまう。中の展示が推測されないように事前忠告ができないのかもしれない。黒い服を着ていても他の選別基準にひっかかったのかもしれない。人が多かったが展示部屋はそこまで広くないようなので多くの人をはぶかざるを得なかったのかもしれない。ただ、あれだけ並んだ末にはぶかれた人はなんなのだろう。何時間も並び、何もない部屋への入室を断られた人のことどうしても考えてしまうので、ブラックボックス展には向いていない人種みたいです。完

ズレ

 

下書きが溜まっているので消化していきたい……。ブログを書くのは楽しいし、ブログの内容はきっとすごく私っぽいんだろうな。Twitterやブログで、意識しても自分らしくない振る舞いができない。自分自身を見てほしい気持ちが強いからわざとらしくないことをするのに価値を感じない、できないというよりめんどくさくなっちゃうんだな。

誰しもが、多かれ少なかれほかの人と違うというステータスを必要としていると思う。特別な存在でありたいという欲求。普通に幸せになりたいと願える人にとっては、普通に幸せであることが特別なことなのかな。私が今ほかの人と違う存在であることを証明してくれるものはなんだろう。いくつか思いつくし、私は自分がみんなと違うことをアピールする方法を知っている。私が得意で、そこらの人には負けないものを知っている。そして、それを知るまでは違う方法でアピールしていたから、今同じことをしている人の気持ちが手に取るようにわかる。わかってしまう。

他人との違いを作る最も簡単な方法は、社会に適応しないことだと思う。普通のレールから外れてしまうこと。一般的な道を外れることの大変さは身をもって知っているし、それなりの代償があることは理解している。普通のレールを外れた人はみんな特別になりたいからそうしたと言いたいわけでもない。ズレがあることを自覚したとき、私はとにかくそれを理解して認めてほしかった。私の場合のズレはなんだったのかな……みんなができることをなぜか私だけできない、というのが大きかったかな。対人関係も、学業も、やればできると言われてきたことは全部やれなかった。友達を怒らせないことや期限までに宿題を出すこと、テストのために勉強をすることが、私にとってはなによりも難しくてできないことだったんだな。でもそんなこと伝わらない。人から見れば甘えでしかない。それが苦しくて、ズレを理解してもらうために腕を切った。腕を切ったことをアピールした。暗い曲ばかりを好きになった。それをアピールした。多少認めてもらったけれど、解決はされず、後々ズレが大きくなっていき私は日常生活をやめる。

私が嫌いな病みアピールも、メンヘラだからの自己紹介も、根本は自分のズレを認めてほしいのかもしれない。自分の生きづらさが上手く解決されない時、関係ないようなアピールをしてしまうよね。個人的にはただの日常の話なのに闇を感じるような人間になりたいなと思っているよ。私の生きづらさはまだ解決されていないもの。まだ心に余裕がないからなにもできないけど、いつかそういう人たちの原因のズレを見つけて認めることができるようになりたい。

ふと気づいたらやりたいことが見つけられていた

 

ワー!めちゃくちゃ長いの書いたら全文吹っ飛びました!😊 心折れたけどもっかい書きます!😊 はてなブログ許さん

 

ずっと数字と科学が好きでした。記憶にある限りずっと、常に算数とか理科とか数学が得意科目だった。現代文も好きだったかな。

そのまま当たり前に理学部に進むつもりだった。ただずっと違和感はあった。確かに理数科目は好きだけど、あくまで学校の科目の中でなら好きなだけで、そこまで学びたい気持ちがあるわけじゃない。というか許されるなら勉強を辞めたい。めんどうくさい。そして理学部に進んで、その後はどうするんだろうか。教職だけは嫌なので一般企業に就職かなあ、楽しくないな。と思ってはいた。だけどほかの選択肢が思いつくわけでもなかったから、なんとなく理学部に進むんだろうなと考えていた。

 

いたんだけど。高2の冬、突然「心理学部に行きたい」と思った。きっかけも理由もわからないけど、ただ心理学部に行きたかった。というか心理学部以外に行きたくなかった。ただ、心理学って基本的に文学部にあるんだよね。理系に進むつもりで勉強してきた私の選択肢は、受験科目の関係でいわゆる難関国立しか残っていなかった。私立も含めるともう少しあるけれど、第一希望は国公立だったので。正直無理だと思ったし、今でも無理だと思っている。でも行きたい。人の心について学びたい。

 

そもそもなんで私はこんなに心理学を学びたいんだろう、学んでどうしたいんだろう、ということで今回のメインです。前置きが長いなあ。

答えを先に言えば、好きな人たちを理解したいからだと思う。好きな人たちの苦しさが、人間性が理解できないことがすごく嫌だったから。理解したい。きっと心理学を学んでもほんの少しわかるようになるだけだけど、そのほんの少しでもわかりたい。だから心理学を学びたい。それも、ちゃんとしたものを。本やインターネットを使えば独学でも学べるけど、それじゃダメだ。それじゃ好きな人たちのことはわからない。

 

どうやら心理学部に進みたい気持ちは好きな人たちをわかりたいことからきているらしい。こんなにもなにかをしたいと思ったことがなくて、私にもやりたいことってあるのか……となんだか安心したりもした。ただひとつ、やりたいことというのは結局自分の中から見つけた。やりたいことはずっとそこにあって、私がそれに気づいていなかっただけだった。どこにやりたいことが落ちているかわからないから、いろんなことをやってみましょうとは言うけれど、そうじゃないと思う。そもそも18年も生きていてやりたいことの片鱗すら見たことがないなんてありえないんじゃないか。美術であれ、学問であれ、それ以外であってもやりたいことに関連していることは見たり聞いたりしているんじゃないか。

私がやりたいことを見つけられたのはラッキーでしかない。でも、今すでに自分の中にあるものの中からでも自分の本当にやりたいことを見つけられる。探さずに、じっと、考えてみてもいいんじゃないか。そう思ったり。

優しい人になりたい

 

10時ぐらいに寝ると2時ぐらいに必ず起きて、しばらく眠れない。早寝をするだけで体調が良くなることはわかったけど、朝まで眠るって難しいなあ。

でも深夜はすごく好き。みんなが寝静まっている中で1人だけ取り残された感覚とか、やけにセンチメンタルな気分とか、いつもより切ない気持ちになりがちなとことか。

というか、切ない気持ちが好きだ。失ってしまった友達、もういない人、空回りする優しさ。みんなが優しい世界なのにすれ違って、どうにもならないものが好き。結局全員が幸せになることはできないってわかるから、安心できるのかもしれない。

優しい人が好きだし、ふと周りに優しい人ばかりなことに気づく。私がわがままだからかな。優しくあるためにいろんなことを我慢しがちなことをわかっているつもりだから、少しでも汲み取っていきたいと思っているけど、難しい。

優しい人になりたい。ずっと黙っていろんなことを許しているような、気づけない人はわからないような優しさを持ちたい。ないものねだりかな。「どういうあなたでもいいよ」という肯定が、許すことが、なによりも人を救うと思ったし、なによりも優しい行為だと思った。自分の中にある矛盾、悪い気持ちがあること、どうしても許せないこと、できないこと、ちぐはぐな言動、弱い部分、そういうものがあっていいし、隠そうとしなくていいのだと思う。もちろんなくしていこうとすることは大事だし、開き直ることは違うけれど、なくなることはないし、自己嫌悪や自分を責める理由にしてはいけない。

誰しもが矛盾や弱さを抱えながら生きているし、優しいあの人もきっとそのうちの1人だから、私もこういうものを持ちながら優しくなってもいいかなと思っている。自己嫌悪からくる優しさもあるし。

100点は取れないけれどいかに100点に近づくか、みたいな課題が人生には多いな。誰にとっても優しい人であることは無理だけど、それにできるだけ近づこうとしなきゃいけないのだと思う。少なくとも自分が好きな人たちに対しては。

そろそろ寝れるかな。明日は少し優しいことばを選ぼう。

どうしようもないこと

 

人を羨ましく思う時がある。私がどう頑張ってもできないことを簡単にやってのけてしまう人が多くて、できないに対する理解も得られず、息苦しいまま生きていくしかないのかな。すぐに諦めてしまうのはよくないことかもしれないけど、できないに対してもっと寛容な世界がいいな。それぞれ違う自動車で、最初から壊れている人もいて、そんな中なのにみんなが同じコースを同じスピードで走るなんて無理だと思うの。

いくつか病気が見つかって、その度に安心する自分がいる。やっぱり私甘えてないんだなって、私が感じてきた違和感はおかしくなかったんだなって、自分を肯定されたような気持ちになってしまう。ずっと頑張れなくて、頑張ってもできないことで怒られて、もう散々だったなあ。どうして私なんだろう。前世で人でも殺しちゃったかな。

どうしようもないことを目の前にして、それでも他人を責められる人と一緒にいるのがつらい。相手の立場で考えればわかることなのに感情のまま怒る人が嫌だ。誰も悪くないのに誰かを悪者にして吊るし上げたい人がこわい。私、生きていくのに向いていない。

 

でも人と喋るのが好き。みんなが思うこととか、知ってることとか、下らない話とか、そういうことが好き。話を聞いてもらうのも好き。上手に話をするのはまだできないことだけど、少しずつお互いに楽しい会話ができるようになりたいと思う。

一般的な努力は凄く苦手だけど頑張ることは好き。なにかを一生懸命やることってこんなに楽しいんだなって。私は友達と一緒にやる方が好きみたい。

好きだけど苦手みたいなこともたくさんあるし、どうしようもないことがいっぱいあって苦しくなるけど、少しずつできることを増やしていこうと思う。他人に迷惑をかけたり、助けられたりが多いけど、きっとそれを避けては生きていけない。まだ上手く生きれないけど、いつか上手に生きれるようになれたらいいな